その弐 下関

1.夜の下関
萩から1時間程で、下関のホテルに到着しました。なんかデカイタワーが窓から見えます。
部屋の中にあったい観光パンフレットから、それが海峡ゆめタワーというものであるものが判明。
そのパンフをよくみると…なんと、そこでは現在「高杉晋作展」開催中で、営業時間が夜9時まで。
疲れているけれど、呼ばれているとしか思えないっ。

展望台に昇ると、おおっ、これは確かに見事な夜景。
問題の高杉晋作展は展望を生かして、見える景色と晋作の史跡がリンクするように、パネルが設置されています。 ああ、これはいい案じゃない?
でも夜なので光っている処しか見えません…残念!でもちょうどいい明日の予習になりました。
晋作クイズなんていうのもありました。自信満々で挑んだのに、2問も間違えた…所詮はにわかファンか。がっくし。


海峡ゆめタワーからの夜景

2.日和山公園
一晩明けまして、今日はいよいよフウちと下関もめぐり。
下関に向かっているフウちとはまだおおまかな待ち合わせ場所しか決めていません。
ワタクシ、ちょっと格好つけて晋作通りで待ってます、なんてどうかしらとホテルを出発。
いえあの、実際単にじっとしてらんなかっただけなんですけど。
晋作通りは晋作像のある日和山公園のふもとです。ちょうど、晋作通りについたところでフウちから、渋滞に巻き込まれてしまってもうしばらくかかるとの連絡がありました。
…えへ。待っている間、日和山公園の晋作さん、見ちゃえっ。
登り始めると、けっこうハード。 基本的に登りものは大好きなんですが、昨日の萩で走り回った足が、今更少し辛い…。
←登り切って少し歩くと、木の枝の向こうに晋作さん発見。とても、見晴らしのよさそうな場所に立っていました。ちょっとウラヤマシイ。
…あ、台になっている石、登れそう。辺りに人はおらず。
登っちゃう?
…ああ、思ってしまった。
はい、いいトシの大人がすることじゃありません。よくわかってはおりまする。
石垣をひとり登る女。日和山公園の晋作像を近くで見たことのある方は、それがどれだけアホな光景か想像できるかと思います。
でも、晋作さんの隣に座って見る下関の街はまた少し格別でした↓
その日もとてもいい天気で、海がキラキラ光って。ねぇ、いい景色だねえ晋さん。

石垣から下りて写真をとっていると、地元のおじいさんが、解説を申し出てくれました。
おじいさんが小さい頃はこの像は銅像だったのだそうで。でもこの像は、戦争で金属が必要となったため、像は供出されてしまったのでした。
昭和31年にそっくりな像備前焼で再建されるまで、しばらくの間ここには台座だけがぽっかりとあったそうです。
ガイドブックで読んではいましたけど、なんだか地元の方に聞けるのって嬉しいなぁ。

おじいさんと分かれたところで、フウちから電話。
「コタちゃんどこ?今ホテルの近くなんだけど…」
きゃあ、ごめんなさいっ!勝手にうろうろしてましたっ。


3.桜山招魂社
日和山公園を下りてフウちと合流。渋滞からようよう抜けてきた処を疲れさせてごめんなさいです…。
おそれ多くも本日はフウちの車にてご案内なのです。かたじけなしっ。
ネットではおなじみ、そしてよく知っている友達のイトコとはいえ、実際に会うのは今回が初めて。
またコキタナイ服で旅にでたもんだし…今更後悔。
もっとも、実際に会ったフウちは気さくな感じで、すぐに不安をぶっとばしてくれました。
おおっ、空気がいちごと同じだっ♪
忙しいのに、コピーをとってくれていた資料をどっさりと渡してもらって。感激。
まずは亡くなった奇兵隊士が神霊として祀られており、奇兵隊士の調練場跡でもある桜山招魂社へ。
本殿にお参りして、その奥に隊士が眠る一群のお墓に参りました。
ある時代の流れを作り、やがて時代の濁流に飲み込まれた彼らは、そこで痛いほど凛とたたずんでいました。とにかく、その迫力に圧倒されました。


桜山招魂社鳥居

4.厳島神社
第二次長州戦争の時に長州藩が落とした小倉城から持ち帰った太鼓がある神社です。
どこにあるのかしら、なんて探す必要もなく、境内に登ると太鼓堂に巨大な太鼓がどん。凄く大きくて、立派な太鼓。これでしょうか?
「なんか随分新しいような…。」 「でも、これしかないよね?」 「うん、これしかないね。きっとこれなんだよね。」
ふーん、そうかぁ、これがその太鼓なんだ、と二人してしげしげみつめ、神社を後にしました。
しかし、 階段を下りたところでフウちが張り紙を発見。
「太鼓、現在補修にだされてるって書いてあるっ!」
…はい、結局、別の太鼓さんだったようで。また今度っ!

 

5.高杉東行終焉の地
厳島神社からまっすぐ南に少し下ると、市街地の一角に、木や花と「高杉東行終焉の地」の碑、由緒書きの立て看板があります。
この後訪ねた療養地からは、妻のマサさんが下関に来るのにあたって、移ったのだそうです。
この場所で、高杉晋作はたった27年と8ヶ月の生涯を閉じました。


高杉東行終焉の地

6.高杉東行療養の地
厳島神社の少し北に、高杉晋作が愛人おうのさんの看病で療養していた場所があります。
ここが今回行った中では一番探しにくいに違いない場所です。
地図を見てもなかなか場所がわからなくて、人に訪ねながらようようたどり着きました。
思いっきり住宅地の中、民家の脇に晋作の漢詩が刻まれた碑がたっています。
途中、細い道と坂が多くて、長崎を思い出しました。


高杉東行療養の地跡の碑

7.白石正一郎宅跡
高杉晋作他沢山の志士たちを支援した商人白石正一郎の家の跡です。
文久三年6月、奇兵隊はこの場所で結成されました。
下関の駅のすぐ側なのですが、なかなかみつけることができませんでした。
中国電力の前のはず、といいながら車で3往復…。とにかく、見つかってよかった!


白石正一郎宅跡・奇兵隊発祥の地の碑

8.長府博物館
長府城下町の入口に車を停めて、目的の功山寺や長府博物館までは歩くことにしました。
わーい、散歩♪
←ここは城下町のたたずまいが素敵。
石畳の小道の脇には、小川がきらきらと光ながらせせらいでいます。見上げればまだまばらながらも、紅葉が日に映えて。
各地の志士縁の地の石が組まれた万骨塔をぐるっとまわり、 まずは長府博物館へ。ここではフウちが古写真を見せてもらえるように頼んでいるそう。
一緒に見せてもらっちゃいました、ふっふっふ。
展示品は興味深いものが沢山。あまり時間はなかったのですが、坂本龍馬の書簡などは筆跡を見ているだけで、いくらでも時間が潰れちゃいます。


長府博物館

9.功山寺
功山寺は政変で都を追われた尊皇派の公卿さんたちが匿われていた場所です。
高杉晋作は当時藩の実権を握っていた「俗論党」(幕府に従おうという考え方の人々)に対抗すべく、いわばクーデターを起こすのですが、決起前にこの公卿さんたちをたたき起こしてあいさつしてます。
ここで有名なアノ名ゼリフがでるわけです。「長州男児の肝っ玉をお見せしましょう」ってヤツ。
司馬遼太郎の「世に棲む日日」では、がっつり衣装まできめてる様子が出てきます。ふ。
こちらには晋さんの騎馬像があります。…かっこよすぎだって。


功山寺の高杉晋作騎馬像

10.東行庵
ここは晋作さんのお墓がある場所。そして愛人のおうのさんが晋作さんを弔ってその後の生を送った場所です。
まずびっくりしたのは、紅葉がきれいだったこと→他のどこでも、こんなに赤く色づいたものをみていませんでしたから。
グラフィッカー(←勝手に造語)フウちは早速写真撮影にに燃えています。
次にびっくりしたのは、思ったより随分広いこと。一山、関連施設のようです。
先に行ってていいよ、という言葉に甘えて、私はお先に一人、坂を上って晋作さんのお墓の方へ。
墓前は深い静けさにつつまれていました。
来ました、先生。

ええと、ここには他にも高杉家の方々のお墓、愛人のおうのさんのお墓、奇兵隊士のお墓などがありまして、お墓だらけです。(コラ)それから、少し下った所に、一番本物に近いといわれている陶像、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し…」で始まる有名な伊藤博文による顕彰碑。当然庵の建物もございまして…こりゃ広いわ。
東行記念館についたのはすでに閉館30分前。 なんとか滑り込ませていただきました。
中はさすが、興奮の品々。私が嬉しかったのはあれです、晋作さんの自画像付きの書の掛け軸ですね。見ると、うふ。ってなります。うふ。
祖父がお医者様だったという館の方とお話しして、おうのさんの晩年の話などを教えてもらうことができました。



高杉晋作(東行)のお墓

11.奇兵隊屯所跡
東行庵からはすぐの所にある奇兵隊屯所跡ですが、 私が地図の見方をまちがえたせいでたどり付くのに随分時間がかかってしまいました。
フウちが、詳しい方に電話をかけて聞いてくれたりして。
たどり着いた時にはすでに大分暗くなっていまして、でも来れてうれしかった!
奇兵隊士の像は野っ原に月をしょって凛々しく立っておりました。


奇兵隊士像(これは私のボロカメラでフウち撮影)

12.伊藤家跡
最後にフウちが龍馬縁の地、幕末の豪商伊藤家の跡に案内してくれました。
現在は由来を書いた立て札があり、当時の井戸が残っています。
龍馬さんはこの井戸を使っていた筈、とのこと。うーん、さすがフウち、龍馬関連、詳しいのです。


このあとフウちとホテルの前でお別れしました。
おかげさまで、本当にとっても充実の楽しい一日を過ごすことができました。
でもこの後フウちは私をホテル近くに下ろしてくれた後、大渋滞に巻き込まれて大変だったようです。

 

13.赤間神宮
翌日。本日は友人の結婚式ある松江に向かう前に、フウちが教えてくれた花街の名残、稲荷神社を見ていこうと思います。近くだからついでに赤間神宮にもよっちゃいます!
ここは奇兵隊が一時駐屯した場所であり、奇兵隊士であり支援者白石正一郎が晩年、宮司を勤めた神社でもあります。
…と、これは高杉晋作フィルタ後の情報。
そもそもは、赤間神宮は平家方の幼い天皇、安徳天皇を祀った神社です。
壇ノ浦の合戦で平家方は敗戦、きっと海の底にも都があるでしょう、と二位尼は八歳の安徳天皇を諭して共に入水しました。それで建物は海の底の都、つまり龍宮城のようなつくりになっているのだそう。
平家一門の方々のお墓の前でようやく思い出したのは、実は自分ちの家系が平家との関係が深いらしいこと。イキナリ主筋にでくわして、ちょっと落ち着かない気分になりました。
幕末ばっかりで、ご挨拶もせず失礼ツカマツりましたっ。
ここで撮ったつもりの写真が、何故かカメラに残ってないんですけど…お、怒ってませんよねっ?


赤間神宮

14.稲荷神社
亀山八幡宮のお稲荷さんと間違えたりしつつ、かつての稲荷町の稲荷神社、なんとか探し出しました。東京第一ホテルの裏に鳥居があり、花街稲荷町を記念した碑もたっています。
稲荷町は平家の官女の血縁と言われる遊女たちのいる、格式の高い花街だったのだそう。
晋作の愛人、おうのさんもこの街で働いていた人です。龍馬や晋作ばかりでなく、井原西鶴や十辺舎一九も訪れたといわれる花街は、当時どれほど華やかだったのでしょう。昭和二十年の空襲で何もかも焼けてしまい、この稲荷神社も戦後になって復興されたものです。



稲荷神社の参道

下関の街はさすが交通の要所、現在進行形です。
昔に比べさびれたという話も聞きますし、それももちろん事実なのでしょうが、県庁所在地を飛び越えて、山口で最も人口が多い街ですから、変貌は当然のことでしょう。
もちろん、江戸時代以外の史跡も沢山あります。この街にとってはその歴史は観光の大事な収入源となっていることでしょう。源義経像など新しい像の建設に力を入れている様子。
今あるものを残すことも、ぜひとも大事にして欲しいなと思います。

さて、今回の高杉晋作を訪ねる旅。勉強不足の初級編です…f^_^;
次はちゃんと勉強して中級編の旅を目指そうっと。(←ーまだ行く気)
こう、旅行記をまとめているだけで、知らなかったことがわさわさ出てくるのが怖いです。
今回は初めてフウちに会えたし!グラフィックの世界をほんのちょっとかじった私には、仕事の話を聞くのもとっても楽しくて。その瞬間のフウちのかっちょいいこと。
とにかく、いっぱいお世話になっちゃったなぁ。感謝、感謝!なのです。

戻る | 旅行記TOPへ